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SACRIFICE - 未来に捧ぐ、再生のいけばな

08/20/2020 14:43:08, , 片桐 功敦

によって 片桐 功敦
4.3 5つ星のうち 1 人の読者
ファイルサイズ : 23.63 MB
内容紹介失われた声を生け花に託して‐ 気鋭の華道家による鎮魂歌! 2013年から福島に移り住み、原発周辺の街で花を生けて歩いた若き華道家の魂の記録。 津波で流された荒れ地を背景に生け花を収めたものなど、約90点の写真を掲載。 凛と咲きほこる花々が、被災地の厳しい現実とともに、再生の願いを伝える。 ■特別寄稿: 赤坂憲雄 ・ 管啓次郎 縄文土器を花器に見立てた作品も収録。出版社からのコメント【展覧会情報】 2015年10月24日~12月6日:南相馬市博物館「SACRIFICE」展開催商品の説明をすべて表示する
以下は、SACRIFICE - 未来に捧ぐ、再生のいけばなに関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
buzzfeedだったか,の記事で片桐氏の取り組みとこの本を知り,先日購入しました。今日帰ったら届いていて,数ページ見てたところで泣けてきてしまい,まだ全部は読めていません。しかし思ったことを言語化したく,この場をお借りします。まず,sacrificeには,「生け贄」という意味だけでなく,「供物」とか「捧げもの」という意味があるという(赤坂氏,本書)。この本を見て,読んで思ったのは,花をいける試みは,被災地への供物として,献花されているのではないかと思った。しかし,献花するとしたら,綺麗な菊の花(仏花)を,綺麗な器に入れて,献花するのも1つの手ではある。ところが,片桐氏はそうはしないのであって,現地の花を,現地の器に活けている。思うに,この地で,綺麗な器に綺麗な仏花が活けられて献花されていても,それはなんだか,グロテスクなのではないだろうか。結局この地で綺麗な器と綺麗な仏花は手に入らないのであって,外部からそれらを持ち込むことは,一方的で画一的な供養を、外部から押し付けることでしかないのではないか。あるいは,それを写真集にしたとしたら,それこそ商業主義的に思えるのである。ところが,片桐氏はそうはせずに,現地で花を探し,現地で見つけた器に花を活けている。これはどういうことなのだろうか。思うに,現地の花を探し,現地の器に活けて献花することは,その土地がその土地を自ら弔っているように思える。歴史ある器に花を活けることも,時代の弔いをしているように思った。牛の頭蓋骨に花を活けたことも,牛に対する弔いだと思った。この作業は,移住されずはできなかったのだろうと思う。多くの人がなくなり,その土地の生活がなくなり,多くのものがなくなったことに対して,その土地そのものとなられて精一杯の弔いをされているように思えたのである。議論を呼ぶ点は,この弔いが,華道というアートによって行われている点にあると思う。しかし,アートではなく,純粋に弔いの儀式だけが行われなければならないのだろうか。私は,アートだからこそ,弔いをできているのではないかとも思った。むしろ,弔いと思ってやっていないアートが,実は弔いだった,と言えるのかもしれない。私は,中国地方から,この本を見て,比較的客観的な立場で,感想を書いている。しかし,この地に住み,何か,もしくは誰かをなくした人にとっては,このように冷酷な客観視はできないと思う。なぜなら,非常に生々しい書だと思われるからである。だからこの本は議論を呼ぶのかもしれないと思う。重要なのは,この試みは弔いなのか,アートなのか,ではないと思う。この本を見たり,写真をみたあなたは,何を思うか,何を思い出すか,どう理解するか,そういったことだと思う。それは,被災の体験が十人十色ゆえだと思う。むしろ,十人十色どころではなくて,直接的/間接的に被災した数十万人もしくは数百万人が,全員異なった体験をしているからこそだと思う。だから我々は,どのように思ったか,なぜなら,自分にとっての被災はどのようなものだったのか,語り合う必要がある。何か正解や唯一の理解,解釈があるわけではないと思う。お葬式とか,何回忌とかで,故人に思いをはせて,いろいろ思い出話をしますよね。土地・歴史・人々・生活を弔ったことを記した書だから,そういった機会を読者に提供してくれるのではないかなと思いました。感想を書いていて,一点思ったことは,片桐氏の意図や思いを,勝手に推察していることです。心中を勝手に推し量るのは,とても失礼なことだったかもしれません。なので,レビューは消すかもしれません。昨年の豪雨災害を経験して以来,人が亡くなることや,生活が変わることに,かなり敏感になるようになりました。東日本大震災の被害についても,以前よりも深刻さを感じるようになった気がします。結局,被災した人しか,わからないことはたくさんあるのだと思います。被害の体験は,その時で終わりなのではなくて,心の奥底でうごめき続けるように思います。うごめくものは,言葉にしたり,話し合ったり,アートで表現することでしか,納めどころが見つからないように思います。

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