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第三巻 1963―1996 (丸山眞男集 別集)

05/12/2020 15:03:27, , 東京女子大学丸山眞男文庫

によって 東京女子大学丸山眞男文庫
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内容紹介 憲法問題研究会の討議資料「憲法第九条をめぐる原理的諸問題」、「ウェ―バー生誕百年記念シンポジウム報告草案」、加藤周一・石田雄との座談「日本の知識人」、英文原稿の翻訳「日本における倫理意識の執拗低音――そのいくつかの側面」のほか、最晩年に至るまでの諸寄稿文・アンケート回答など。また、補遺として「“もの”への情熱」他一篇、付録として「研究補助交付のための総合研究概要「日本政治思想における伝統と近代」」を収める。 内容(「BOOK」データベースより) 思想的座標軸の構築を目指して。60年代から最晩年にいたるまでのたゆまぬ思考の軌跡。
第三巻 1963―1996 (丸山眞男集 別集)を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
標題の文章の意味は、「これは自分の役割意識からの行動と自分の「好み」の輸出とを区別せよという意味である」(P.5)です。自分の行動は、自分の「好み」からばかりで行ってはいけない、その時点での様々な状況判断で「好み」に反する行動を行うことも多々あるということです。内的エネルギーの爆発ばかりではどうしようもないということです(かの「全共闘」はそういう「爆発」を好みましたが)。私も「内発性」を大事にする、ということは常々考えているのですが、そういうことではなくて、「シチュエーショナル」(状況に応じた)な思考方法が重要であるということでしょう。では、引用とコメントで、『丸山眞男集別集第3巻』を紹介します。●「日本の知識人(座談)丸山眞男×加藤周一×石田雄1967年初め(推定)」(P.59~P.105)平石直昭の「解説」に、この座談会の前提が書かれていますので引用します。「1966年秋にサルトルが来日し、日本の知識人と交流を深めた。この折にサルトルから『レ・タン・モデルヌ』で日本特集号を出したいとの申し出があり、加藤周一を中心に企画が進み、丸山には「日本の知識人」のテーマが割当てられた。この座談はその準備の過程で、加藤・石田雄が丸山の構想を聞き、意見をのべる場として設定された。」(P.389)では、対談の一部を若干長く引用します。「加藤それの説明は、非常に大事ですね。だから二つあるのだと思うのですね。むしろ逆みたいになっているのだけれども、軍国主義の波がきて、いわゆる日本式リベラルでいろいろな人があるが、それには、ある程度軍国主義への譲歩みたいなことをちょっとするような、中野〔好夫〕さんのような人間。それと竹山さんのような反対する人間。そうして、戦後になると竹山さんのほうは、完全に体制側にいって、中野さんのほうが、むしろ権力に対して・・・・。これは、どうしてそういうふうになっちゃうか。しかし、これはとても大事なんだな、日本の情勢では。つまり、日本のシーンでは大事なことでしょう。石田だからそれをいうと、文化人の、知識人の罪の意識になる。丸山それは罪の意識になるのですよ。日本に宗教がないから。僕の根本仮説は、宗教がないから、レリジャスなものが、いろいろな領域にあらわれる、レリジョンじゃない領域で。僕は、挫折もそれで解釈するのですよ。挫折知識人ですね。これは、どうしてああいう深い傷を負うのか。たかが政治行動でね。政治行動は、失敗したり成功したりするのはあたりまえなんでね、ドライに考えると。そう思うのよ。加藤しかしそれは、かえってわかるのではないですか、フランス人は。政治行動が失敗したり成功したりするのはあたりまえで、政治行動というのは、どうせ100パーセントうまくいくものじゃない、リラティブ〔relative相対的〕だ。それを絶対的な罪に還元するのはおかしいというのは、わかるのではないかな。フランス人は、むしろリラティブに考えるよりも、強く強く考えるのではありませんか。レジスタンスのときの罪の問題なども、やはり非常になんというか、インターナル〔内在的〕なつかみ方でね、罪の問題などではなくて。その典型的なものが、カミュなどもそうですが、英国人からみれば、今丸山さんのおっしゃったのとまったく同じで、R.H.クロスマン〔労働党左派の理論的指導者〕の「ブックレビュー」をみたが、カミュの英訳を〔読んだ〕クロスマンは、どうして〔カミュが〕こう力んでいるのかわからない。どうせ政治問題だから、そうむきになって人間の最後のぎりぎりのところが出るの出ないのとやるよりも、もう少し常識的にやったらいいではないか。それに、あたかも個人的なアプシューディティー〔absurdity不条理か〕とマルクシズムか、どちらかというので迷って、本のはじめから終わりまで、何百ページも悩んで苦しんでいるけれども、もっとフェビアン協会、スカンジナビアン・ソシアリズムとかあるのでね。なにもどっちか、マルクシズムか、絶対的な個人主義かなどということで、死にもの狂いになるのは、馬鹿馬鹿しくてみておられないという書評ですが。よくコントラプトというでしょう、クロスマンが実際政治に・・・。丸山だからマルクス主義は、マルクス主義からの挫折と〔いうなら〕、それならよくわかるのです。それは、マルクス自身がレリージャスなものをもっているから。ところが、たとえば安保闘争の挫折とかね。加藤それはわからない。丸山それは一つの闘争でしょう、安保闘争は。どんな大きな事件であるとしても、一つの政治的なインシデント〔incident事件〕なんだな、あれは。それで傷だらけになるというのは、政治的闘争の仕方が、やはり、ある宗教的なものがある。加藤それはそうですね。丸山そこで敗北ということがある。敗北で傷だらけになる。だからその意味では、やはり日本的なんです。」(P.90~P.92)この対談は、1967年初め(推定)の頃のものですので、「全共闘」運動の前、したがって、話は、安保闘争の「全学連」になるのですね。●「『加藤周一著作集』をめぐって--W氏との対談--」(P.241~P.324)「「W」氏は平凡社編集部で加藤周一著作集の編集のあたった鷲巣力をさす。」(P.398)とのこと。加藤周一については、高校生のときから、読もうと思っていたのですが、未だに(たぶん)一冊も読んでいません。あの有名な岩波新書の『羊の歌』も未読です。『加藤周一著作集』(平凡社)、『加藤周一自選集』(岩波書店)も買おうと考えたこともあったのですが、結局買いませんでした。これから、あのちくま学芸文庫の『日本文学史序説(上)(下)』を手始めに読もうかとも思っています、この対談のなかでも、丸山眞男が結構高く評価していますので。この対談では、相変わらず丸山眞男が、「第一バイオリン」を高らかに弾きっぱなしです。その一部を引用します。「丸山うん。だから、そうい意味では、文学というものをはるかに超えた、「苦労してないヤツはダメだ」というような議論になっている。その苦労というのは、一生懸命働くとか、そういうことなんだけれども(笑)、精神的なアルバイトっていうのは苦労に入らないわけだ、そういう意味では。防空練習で一生懸命掘った、それこそ兵隊にいって便所掃除したとか、インテリがそういうことをしたというのは苦労に入るわけです。そういう意味では加藤君は、白い手袋をしていて、手が汚れていないというか、もっと極端にいうと、傍観者としてみられる。だから、鴎外を含めて、傍観者というのは評判が悪いんです。その逆の、知行合一みたいなのが評判はいいんだなあ。いわゆる知行合一というのは、ぼくにいわせると”知”があまりなんだけれどね(笑)。行というか、肉体的実践に従属している知のほうがどうも評判がよろしいんです。そういう意味では、加藤周一の場合、逆にそれがいろんな意味でマイナスになっている。たとえば戦国時代に「横目」〔横目付〕というのがあったでしょ。これはたいへんな知恵なんですね。つまり、横目は実戦に参加しちゃいけないんです。実戦に参加したら罰せられるんですよ、逆に。で、山の上のほうにいて、形勢を観望しているわけだ(笑)。これは実に見事な分業の精神です。というのは、みんなチャンバラをやっていると、先ほどのあなたの話じゃないけれども、全体がわからなくなっちゃうんですよ。そこでやっぱり何人かは山の上にいて、実戦には参加しないでいる。そうすると、チャンバラをやっている人にはみえない全体がみえてくるわけです。ところが、横目的な分業意識がなくなっちゃって、二宮金次郎的なハタラキ精神が隅々まで浸透してしまった。三島由紀夫〔作家〕まで、みんなそうなんだな。たとえば陽明学が流行って、朱子学がダメだというのは、朱子学は終極的には知行合一なんだけれども、やはり知先行後なんですよね。まず知だということなんです。ところが朱子学の窮理とか、知の優位というのは流行らないわけです。陽明学だって、ぼくにいわせれば日本的陽明学なんだけれども、日本的陽明学の知行合一で実は行を優先させるというのが、三島由紀夫をはじめ、流行るわけね。そういうことになると、加藤周一はいかなる問題でもある程度以上の実践的な問題にはコミットしないわけです。ぼくもそうだけれども、ぼく以上にそうだね、彼は。それはもう見事といっていいぐらいコミットしない(笑)。日本的な道徳基準からいうと、実にずるいヤツだということになるわけですよ。そういう日本的モラリズムからの評価が一つないだろうかという気もするんです。--それはあると思います。丸山そうすると、いろんなのが寄せ集まっているんですね。--ええ。先ほどのハイカラ趣味についていいますと、私は、加藤さんはハイカラ趣味ではないと考えているんです。というのは、どういうわけか、加藤さんというのは贅沢な暮らしをしていると思われているわけです。大方の人がそう思っている。しかし、実際の生活は、どのくらい稼いで、金をどこにどう使うかという問題もありますが、加藤さんは衣食住にはそう贅沢じゃないです。丸山簡素なのね。--ええ。丸山だから、そこがまさに考え方の問題なんですね。確かに加藤さんはあなたのおっしゃるとおりです。だけど、ヨーロッパ的なんですよ。ヨーロッパ人というのは非常に質素です。日本のほうがはるかにひどく贅沢です。それから、たかりの精神というのかな、出版社の金でバーに行ったりするのは平気だとか、そういうのはヨーロッパではちょっと考えられない。身銭を切るなら別ですけどね。また、そんなとこへたびたびは行きません。そういう点でも、いつかぼくは日本のバーというのは全然つまらないといったら、加藤君がえらい共感してね。--加藤さんもきらいですから・・・。丸山ええ。いつか加藤君と、あと4,5人で行ったことがあるんですよ、銀座のバーへ。それで二人でしゃべっていたら、ホステスがみんなどこかへ行っちゃうんだ(笑)。だから、二人でしゃべっちゃって、なんだ、つまんねェなって言い合ったんですよ。「あなた、しばらくじゃないの。どうしてるの、いい人でもできたんじゃないの?」とか、何てまあ、ああいう常套的な話を聞いて、みんな満足しているのか、逆に理解できないわけよ。何もぼくら二人は高級な話をしていたんじゃないんです。・・・・」(P.266~P.269)この後、丸山眞男の大好きな敗戦前の映画『暖流』についての話が続きますが、じゅうぶん「高級な話」です。「『暖流』〔岸田國士原作、吉村公三郎監督、松竹製作、1939年公開〕」(P.269)。丸山は、『暖流』の女優では、水戸光子派ですね。もう一人は、高峰三枝子です。書評者は水戸光子はよく知らないですね。戦後に見たのは、年取った高峰三枝子ですが、彼女はあまり好きになれませんでした。同じ「高峰」でしたら、高峰秀子ですね。『二十四の瞳』や『浮雲』でしょうか。丸山の言った、上記のホステスの言葉:「あなた、しばらくじゃないの。どうしてるの、いい人でもできたんじゃないの?」は、丸山眞男にしては、若干ステレオタイプのような感じがしますね。

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